2016年09月21日

自由すぎる俳人『種田山頭火』の名句とゆかりの地を巡る【山口】

自由すぎる俳人『種田山頭火』の名句とゆかりの地を巡る【山口】

大正~昭和にかけて活躍した種田山頭火(たねださんとうか)は、「字数」や「季題」に捉われない「自由律俳句」を代表する俳人のひとりです。波乱に満ちた57年の生涯を通じて、8万句以上もの作品を残しましたが、自由奔放で味わい深い俳句は、現代を生きる人々にも受け入れられています。そんな種田山頭火の作品を紹介すると共に、生まれ育った山口県に点在するゆかりの地をご紹介します。

山頭火の自由すぎる俳句 誰でもつくれそう

学校の教科書にも度々目にする俳人「種田山頭火」。よく山頭火とよばれています。

“どうしようもない私が歩いてゐる”
“まっすぐな道でさみしい”など、堅苦しくない俳句で現代の私たちでも簡単に理解できます。むしろ、俳句ってこんなに自由でいいんだ。と思わされます。

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出典:トムとジェリーさんの投稿

まっすぐな道。

波乱に満ちた種田山頭火の生涯

1882年(明治15年)に山口県防府市で生まれた種田山頭火(本名:種田正一)は、自らのことを「無能無才」や「小心にして放縦」、「怠慢にして正直」と評し、その57年の生涯を「無駄に無駄を重ねたような一生だった」と振り返っています。山頭火という人物は、一体どのような人生を歩んできたのでしょうか?

波乱に満ちた種田山頭火の生涯785460

出典:

種田家は村の大地主で、父親は役場の助役なども務める顔役でしたが、女性関係が派手な方で、母親はそれを苦に、山頭火が11歳の時に井戸へ身を投じ亡くなっています。俳句を始めたのは15歳の頃からで、高校を主席で卒業し早稲田大学へ進学するなど、学業の方は優秀だったそうです。大学在学中に神経症を患い故郷へ戻ることになった山頭火は、その後、一家で開業した酒造場の仕事を手伝いますが、およそ10年で破産に追い込まれ、父親は消息を絶ちます。不幸続きの山頭火は、酒に溺れたようですが、俳人として頭角を現してきたのは30代頃からで、投稿した句が俳句誌に掲載されています。

波乱に満ちた種田山頭火の生涯785449

出典:

山口県湯田温泉郷「山頭火通り」にあるマンホール。

34歳で熊本市に移り住み、古書店を開業しますがこれも失敗。さらには借金を苦に弟が自殺した影響もあり、この頃は空虚感や欠落感がつきまとう生活が続いたと言われています。行き詰った山頭火は、職を求めて上京するものの、40歳のときに再び神経症を患い、勤めていた図書館を退職、翌年には関東大震災により焼け出されます。熊本へ戻った山頭火は、縁あって寺男となり出家し、味取観音堂の堂守となりましたが、俳句への思いが高まり、すぐに句作の旅へと出発します。
その後西日本を中心に山梨県や長野県、東北地方へも足を伸ばした旅は、亡くなる直前まで続き、その間に数々の良作を生み出したとされています。

現代人にも理解しやすい山頭火の俳句 

現代人にも理解しやすい山頭火の俳句 785472

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種田山頭火が得意とした「自由律俳句」とは、無駄を全て省いた「一行詩」のことで、世界最短の詩形とも言われています。ただし「一行詩」=「自由律俳句」というわけではなく、感情の自由な律動を求め、「五七五」の定型から脱却した、俳句の一形態と位置づけられています。また「~かな」、「~けり」などの切れ字や季語、文語は用いず、口語で作られることが多いのも特徴です。

俳句は言葉の「音」や「リズム」を楽しみ、そこに美しさを見出す芸術ですが、山頭火の作品は、同じ音を繰り返し用いるなど、特にこの傾向が強く見られます。

“てふてふひらひらいらかをこえた”
“春の山からころころ石ころ”
“あざみ鮮やかな朝の雨あがり”
“ほろほろほろびゆくわたくしの秋”
“もりもり盛りあがる雲へあゆむ”(辞世の句)

何だかラップのような趣がありますよね?そのほか、情景や感情を詩的に呟いたな作品も多く、現代のツイッターに通じるところも、今の人に受け入れられる要素かも知れません。

“まっすぐな道でさみしい”
“笠にとんぼをとまらせてあるく”
“ころり寝ころべば青空”
“あたたかい白い飯が在る”
“咳がやまない背中をたたく手がない”

種田山頭火ゆかりの地をご紹介 in山口

種田山頭火ゆかりの地をご紹介 in山口785381

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九州、四国、中国地方のほか、甲信越、東北と全国を旅して回ったので、日本各地に山頭火ゆかりの地は存在していますが、ここでは、誕生から30代半ばまでを過ごし、50歳を過ぎてから庵を結んだ、山口県に点在する観光スポットを5つご紹介します。

種田山頭火之像

種田山頭火之像785384

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「旅の始まりは駅から」ということで、最初の観光スポットは、JR山陽本線の新山口駅南口にある「種田山頭火之像」です。台座の“まつたく雲がない笠をぬぎ”という句は、1930年(昭和5年)に旅先で詠んだもので、山頭火の直筆を復元して刻まれています。

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出典:

また、生誕地であるJR防府駅北口(てんじんぐち)の像には、“ふるさとの水をのみ水をあび”という句が刻まれているほか、市内各所には70数基もの句碑が建てられているそうです。

山頭火生家跡

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生家跡はJR防府駅より約1㎞ほどのところに位置します。当時の種田屋敷は850坪ほどあったそうですが、現在は住宅が所狭しと立ち並びその面影はありません。屋敷の正門だった場所に東屋風の小屋があり、観光客が集う休憩所となっています。また、近隣の住宅地の中には、母親が身を投じた井戸が残っているそうです。

山頭火の小径

山頭火の小径785400

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「山頭火の小径」とは、生家から山頭火が通っていた松崎小学校までの散策道のことで、道沿いに建つ家の門や塀には、故郷を詠んだ山頭火の俳句が掛けられています。

其中庵(ごちゅうあん)

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1932年(昭和7年)9月から1938年(昭和13年)まで暮らした庵。50歳を迎えた山頭火は、体力の衰えから作句と行乞(ぎょうこつ)の旅に限界を感じていました。そこで、山口市小郡(おごおり)に庵を結び「其中庵」と名付け生活を始めます。安住の地を得た山頭火は、数々の句集を発行するなど、最も充実した文学生活を過ごしました。現在の其中庵は、1992年(平成4年)に当時の建物を復元したものです。

湯田温泉

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湯田温泉は、1日に2,000Lもの天然温泉が湧き出ており肌になじむようなやわらかいお湯が特徴です。

56歳になった山頭火は、其中庵の老朽化に耐えきれず、山口市の湯田温泉に居を移します。温泉街には、山頭火が贔屓にしていた温泉宿や、ユーモアあふれる句が刻まれた句碑、山頭火の名を配した通りなどがあります。

おわりに

五七五の俳句はちょっと難しいという方も、自由律俳句であれば気軽につくれそうですよね。また、山口県を観光するなら山頭火ゆかりの温泉街を歩きつつ、ゆったり湯に浸かって一句詠んでみるのもいいかもしれません。もしかしたら意外な才能が開花するかもしれませんよ!

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