2016年09月07日
【京都・大阪・奈良】陰陽師・安倍晴明ゆかりの地を巡る旅
平安時代の陰陽師「安倍晴明」は、平安京を「鬼」や「物の怪」から守ったスーパーヒーローとして、現代まで語り継がれています。晴明ゆかりの地を巡りながら、安倍晴明の伝説めぐりを楽しんでみませんか?清明神社を筆頭に、京都・大阪・奈良にある安倍晴明ゆかりのスポットをご紹介いたします。
誰しも名前は聞いたことのある陰陽師「安倍晴明(あべのせいめい)」。一体どんな人物だったのでしょうか?
安倍晴明といえば、陰陽寮の天文博士として星の動きから花山天皇の退位の予知を行なったり、藤原道長にかけられた呪詛を破った事は有名です。晴明は“狐の子”と噂され、屋敷の近くの一条戻橋の下に「式神」を隠し、自在に「式神」を操っては「鬼」や「物の怪」たちから平安京の平和を守ってきました。藤原道長の日記「御堂関白記」や「今昔物語集」など、さまざまな記録に残る陰陽師・安倍晴明は、平安京のスーパーヒーローだったのです。
そんな平安時代のスーパーヒーロー「安倍晴明」の伝説といえる痕跡は、今もなお安倍晴明ゆかりの地で垣間見ることができます。京都・大阪・奈良にある、安倍晴明ゆかりのスポットをご紹介いたします。
「晴明神社」は、安倍晴明の偉業をたたえた一条天皇によって、晴明の屋敷跡に寛弘4年(1007年)に創建されました。晴明が生きていた頃の屋敷は広大で、今の「京都ブライトンホテル」のあたりまでだったともいわれています。
「大鏡」の中の「花山院の出家」には、屋敷で式神に命令する様子が描かれています。花山天皇の退位を晴明は屋敷にて予知し、宮中に奏上するため牛車の支度をさせ、「とりあえず、式神よ、宮中に参内せよ」と命じたと記されています。かつて晴明が暮らしていた場所に立つことで、何かを感じることができるかもしれません。
晴明神社 〜陰陽師 安倍晴明公をお祀りする晴明神社〜
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「安倍晴明神社」は、寛弘2年(1005年)に一条天皇の命によって、安倍晴明が生まれた屋敷跡に創建されたと言われています。神社のある大阪の阿倍野の地名の由来は、古代の豪族安倍氏が住んでいたことにあります。晴明はこの安倍氏の一族として天慶7年(944年)、または延喜21年(921年)3月辰の刻に、こちらで生まれたと言われています。幼名は「安倍童子(あべのどうじ)」。その後安倍童子は、京の都で陰陽師・賀茂忠行に普通の人にはない不思議な力が認められ陰陽師・安倍晴明となり、天文博士、陰陽頭(おんみょうのかみ)、播磨守などを務めて、朝廷より従四位上に叙せられるのです。
安倍晴明神社の詳細情報
“大化の改新”で左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が、一族の氏寺として建立したのが「安倍文殊院」です。そして、「尊卑分脈」の家系図によれば、安倍晴明は安倍倉梯麻呂の子孫なのです。さらに晴明は「竹取物語」でかぐや姫に求婚した安倍御主人(あべのみうし)の子孫にもあたり、唐の玄宗皇帝に仕えた阿倍仲麻呂もまた同じ一族なのです。また、晴明は亡くなった後はこの山のカラト古墳に追葬されたとも伝えられています。「安倍文殊院」は晴明も訪れたお寺であり、晴明のルーツがわかるお寺なのです。
安倍文殊院
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堀川に架けられた「一条戻橋」は、京の都と外の世界との境界線でした。晴明の屋敷が「戻橋」の近くにあったというのは、外の世界から「鬼」や「物の怪」が都に入るのを、この「戻橋」で防ぐためだったとも言われています。この「戻橋」の下に、晴明は大きな石櫃を隠していました。中には晴明が操る式神十二神将がいて、晴明の命令に従っていたと言われています。
一条戻橋の詳細情報
「神泉苑」は平安京遷都の時に築かれた宮中の庭園で、現在の面積の30倍ありました。かつては広大な池に船を浮かべて、天皇たちが船遊びをしたり、宴や儀式が行われておりました。安倍晴明の息子の安倍吉平は、この「神泉苑」で陰陽師として初めて雨乞いの儀式「祈雨祭」を行ない、雨を降らせるのに成功したと記録されています。この時、父親の晴明がいっしょだったのかは記録にありませんが、宮中の儀式や宴で、晴明がこちらを何度も訪れていたのは間違いありません。
神泉苑
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安倍晴明の呪力の強さを語るエピソードがあります。晴明は「遍照寺」の寛朝僧正と親しくしていました。寺を訪れた時、若い貴族たちは「式神を使って人を殺せるのか?」と晴明の力を試したがり、「あのカエルを殺してみせよ」と引き下がりません。仕方なく、晴明は庭の木の葉をちぎって呪文を唱えてカエルに向かって投げると、たちまちカエルは死んでしまいました。貴族たちは恐ろしさのあまり逃げ出したと伝わっています。かつての「遍照寺」のあった場所から今は少し離れた場所にありますが、「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」には、「遍照寺」での出来事として記されています。
遍照寺の詳細情報
「真如堂」には、安倍晴明の蘇り伝説があります。一度死んだ晴明が閻魔大王の前に出た時、晴明が大事にしていた不動明王像が現れ「この者はまだ死ぬべき定めにない」と訴えたというのです。やがて閻魔大王から「生き返った後、人々を救うために使いなさい」と五芒星の印判「決定往生の秘印」を受け取り、この世に蘇ったと伝えています。この秘印は、今も「真如堂」に残されているとのことです。さらに、閻魔大王と対面する晴明のシーンの絵も残されています。こちらの絵と秘印を押したのは本堂で常設展示されています。また、晴明を救った不動明王像も、本堂の御本尊の左側に安置されています。
真如堂 (真正極楽寺)の詳細情報
真如堂 (真正極楽寺)
- 住所
- 京都府京都市左京区浄土寺真如町82
- アクセス
- 1) JR京都駅烏丸中央出口から市バスで40分5・7・100系統 - 錦林車庫または真如堂前から徒歩で8分 2) 阪急京都本線河原町駅から市バスで20分5・17系統 - 錦林車庫または真如堂前から徒歩で8分 3) 地下鉄東西線三条京阪駅から市バスで15分5系統 - 錦林車庫または真如堂前から徒歩で8分 4) 京阪本線出町柳駅から市バスで10分17・203・102系統 - 錦林車庫または真如堂前から徒歩で8分
- 営業時間
- 9:00〜16:00
- 料金
- 大人 500円 3月、11月の特別拝観時は1000円
安倍晴明は寛弘2年(1005年)9月26日に85歳で亡くなり、嵯峨野に葬られたと伝わっています。しかし当時、晴明の墓は京都の松原橋近くにあった「法城寺」にも作られ、江戸時代には三条大橋近くに墓は移されたとも伝わっております。平安時代の人たちは晴明の墓をおくことで、強い霊力で災害から守ってもらおうとしたのでしょう。京都の各地に晴明の墓と呼ばれた場所がありました。こちらのお墓は室町時代には現在の場所にあったと検証されています。現在に残る、最も古い晴明墓所です。
嵯峨墓所の詳細情報
平安時代のスーパーヒーロー、陰陽師・安倍晴明伝説は、これだけではありません。これらの場所をすべて訪れた時、さらなる伝説があなたの前に現れるはずです。