2017年12月21日
豊臣秀吉ゆかりの「城」をめぐる!歴史好きなら訪れたい13の城
全国各地にあるお城や城跡。天守が残っている所は多くはありませんが、土塁や堀、石垣などの遺構が残っている所は多くあります。公園として整備されている所や、花見の名所など遺構以外にも見どころたっぷり。全国各地にある豊臣秀吉ゆかりの「城」を巡って、歴史に思いを馳せてみませんか?
秀吉が織田信長に仕える前に訪れたことがあるといわれる「引間城」のあった「引間城跡」。農民だった秀吉が引間城で武家に奉公していたという説もあります。そこから天下人へと出世を果たした秀吉ですが、出世の始まりは引間城にあったかもしれないなんて驚きですね。
引間城跡は現在「浜松元城町東照宮」として整備されています。浜松城を観覧して満足される方が多いですが、浜松城から徒歩で行ける距離にあるので、少し足を伸ばして訪れてみてください。境内には若かりし頃の家康像、少年時代の秀吉像が設置されており、天下人2人の間で記念撮影もできますよ。
施設スポット検索-引間城跡(浜松元城町東照宮)|公式/浜松・浜名湖観光情報サイト~浜松だいすきネット~
安全性、情報の更新性の観点から外部サイトのURLを削除しております。
秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代に一夜で築いたと言われる「墨俣一夜城」。織田信長が佐久間信盛や柴田勝家に築城を命じるも失敗しましたが、秀吉が上流から流した材木を組み立て築城したという逸話もあるほどです。さまざまな説が残されています。
墨俣一夜城の詳細情報
墨俣一夜城
- 住所
- 岐阜県大垣市墨俣町1742-1
- アクセス
- 【公共交通機関利用の場合】・JR穂積駅 駅前バスのりばから名阪近鉄バス 安八穂積線・安八温泉行きに乗車し13分「プラント6口バス停」下車、徒歩5分・JR大垣駅 南口2番のりばから名阪近鉄バス 岐阜聖徳学園大学行きに乗車、「墨俣」で下車、徒歩12分・JR岐阜駅 6番のりばから岐阜バス 墨俣行きに乗車、終点「墨俣」で下車、徒歩12分【お車利用の場合】・名神高速道路 安八スマートICから約15分、岐阜羽島ICから約20分、大垣ICから約30分
姉川の戦いで織田軍が浅井軍から奪取し、秀吉を城番とした「横山城」。小谷城へと逃げ込んだ浅井・朝倉連合軍を攻める最前線基地として機能し、賤ヶ岳の戦いの際には秀吉によって改修されたスポットです。賤ヶ岳の戦い以後は廃城となっています。
横山城跡は現在石田山公園として整備され、天守閣はありませんが、堀切や土塁などの遺構が綺麗に残っています。登城道はハイキングコースとなっており、山頂から小谷城、長浜城、姉川の戦い跡を一望!遺構好きにおすすめのスポットです。
横山城跡の詳細情報
秀吉が初めて城を築き、城持ち大名となった「長浜城」。当時“今浜”と呼ばれていた地を信長から一時拝借して、“長浜”と改名したのは秀吉だったんですよ。
長浜城歴史博物館の詳細情報
長浜城歴史博物館
- 住所
- 滋賀県長浜市公園町10-10
- アクセス
- 長浜駅 徒歩 8分 長浜ICから15分
- 料金
- 【料金】 高校生以上410円、小中学生200円(団体20名以上2割引)※但し、長浜市及び米原市の小中学生に限り無料
信長の命を受けた秀吉が攻めた「三木城」。正攻法では攻略できないと判断した秀吉は兵糧攻めをすることになります。その凄惨な状況から「三木の干殺し」という別名が付くほど凄まじい状況だったそうです。
三木城跡の詳細情報
日本で初めて世界文化遺産に登録された「姫路城」。黒田官兵衛が秀吉に献上し、中国攻略のために秀吉が拠点とした城で、その際に秀吉は3層の天守閣を築きました。日本国内のお城でも抜群の知名度を誇っているスポットです。
姫路城 (姫路公園)の詳細情報
姫路城 (姫路公園)
- 住所
- 兵庫県姫路市本町68
- アクセス
- 1) JR「姫路」駅、山陽電車「山陽姫路」駅から徒歩で約20分 2) JR「姫路」駅、山陽電車「山陽姫路」駅からバスで約5分、「姫路城・大手門」下車すぐ
- 営業時間
- 9:00〜17:00 ※入城は16:00まで ※4月27日〜8月31日は1時間延長
- 定休日
- 12月29日〜12月30日
- 料金
- 大人 (18歳以上の方) 1,000円、子供 (小学生・中学生・高校生) 300円
秀吉によって戦国史上最悪の兵糧攻めを受けた「鳥取城」。兵糧ルート、援軍ルートを完全に断絶したため、城内は悲惨な状況になっていたと言われています。
鳥取城跡 久松公園の詳細情報
城ごと水攻めにするという大胆な案を練り実行された「備中高松城」。この城を攻めている最中に本能寺の変が起こってしまった為、秀吉は事を早急に収めて、信長の敵を討ちに引き上げました。後に中国大返しと呼ばれることとなりました。
備中高松城址公園の詳細情報
“本能寺の変”の後に、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清須会議後に手に入れた地で築城された「山崎城」。大阪城ができるまでの間、秀吉が本拠地としていたお城です。
天王山 (山崎城跡)の詳細情報
石山本願寺があった場所に建てられた「大阪城」。大阪城は豊臣の力を誇示するためのお城で、訪れた大名たちを秀吉自ら得意気に案内したと言われています。“太閤さんの城”として親しまれています。
大阪城の詳細情報
関白となった秀吉の政庁・邸宅として建てられた「聚楽第」。聚楽第完成後は、ここを拠点とし、家督を継いだ甥・秀次も聚楽第に住みましたが、謀反の疑いをかけられ追放されたのちに破却されました。
聚楽第跡の詳細情報
秀吉が朝鮮出兵の際に拠点として築いた「名護屋城」。敷地面積は約17ヘクタールと、当時大阪城に次ぐ規模だったそうです。
名護屋城跡の詳細情報
地震による崩壊や戦場の舞台となって落城した為、3度建てられた「伏見城」。初代を「指月伏見城」、2代目を「木幡山伏見城」、3代目を徳川期と区別されています。「木幡山伏見城」は秀吉が息を引き取った場所でもあります。
伏見城の詳細情報